良きものは良き

2019年8月からこちらでお世話になります しばらく慣れないと思うのでちまちま変えます

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毎年書いてもう20年も経って
自分でも
ちょっともう、良いかな、と思ってました。


でも、、、
これからもきっと、書いてしまうし、思ってしまうと思う。

とある人に言われました

続ける事、と


正直続けても、人の記憶の風化も感情も、時間が過ぎたら
忘れてしまう

そう思ってました

でも
こんな私のブログでも
読んでくださる人がいるなら

神戸の長田出身として、書ける限り、

思いのぶんだけ長くなりますが

書いていこうと思います。


1995年1月17日

あの日、私たち家族は
逃げた、という感覚はありません。大阪、姫路、加西等に疎開はしましたが、、


逃げる事はなかった、それは幸運な事でした。

幸いにもという発言が的確なのか、失礼にあたるかもしれませんが、
うちの実家は道路や風向きなどにより火災にはあわずすみました。

迫り来る炎の中逃げた、という戦争のような事は体験していない、、

迫り来る津波から逃げた、事もない


当時、圧迫死、焼死、
生きながら焼け死んだ方が相次いだ中

その中から逃げたい、生きたい、という死と隣り合わせな事は

その方が私には想像できないくらい恐ろしい事なのでしょう


ということは


私は
あの地震の中、生きて、ある種の消失感、恐怖感、しか思えてなかったのかもしれない。

友達は家をなくしたり家族をなくしたりしましたが、、


仏壇や家具が倒れてきて、小学三年生の当時、瞬間的に体が縮こめたのは咄嗟の判断でしたが、死ぬかもしれないと思ったには思ったでしょうが


事が起きてから、事の大きさに気がついたのではないでしょうか、、


昨日、タイムリーに、父親からメールが来て「もうすぐ誕生日やけど震災直後の誕生日覚えてるか」と聞かれました、


正直覚えてない、、、
震災への強烈なインパクトで
自分の誕生日何をしたのかさっぱり思い出せない、
たぶん、こんな時やからわがままゆうたらあかんと思ったとは思うけど、、

父に聞いたら「餅ばっかり食べてたのに米が炊けるようになったら餅に見向きもしなくなった」だそうな、、誕生日感ゼロやん、しかもたぶんタイ米やったやろな笑



そして、この20年、
神戸の出身と言うとだいたいが「地震大丈夫やった?」と心配していただき、そのつど自分が体験したことを話すので
変な話ですが、毎回話すので、話自体がうまくなってきたんです。

話さねば、伝えねば、と思う反面、話が暗くなりがちなので
実体験談として、オチみたいな事もつけれるようになり、笑いで話を終えられるようにもなったんですが


その話をすればするほど、他の何かを忘れていってる気がします。


阪神淡路大震災の体験の別の話をインタビューなどで引き出された時は毎回頭が痛くなって、思い出す事を辞めてしまったりして

ということは、子供心ながらに何かを忘れてしまいたい、気持ちに蓋をするような、振り返りたくない過去が頭のどこかに眠っているんでしょうね。


地元の友達と話す事と
そうでない人に話すのは
ちょっと、違ってくるんです。



それに気がつくまでに20年。

思い出そうとすると頭がどうやら痛くなると思った事が5年前

心的外傷があるのかもしれないと自覚がうまれたのが4年前


時間が経てば、忘れる事も、何やらおかしい事も出てきてしまいました。


祭りでも何十周年!でもないけど、いつまでもこの日は何年経っても特別に思ってしまうんでしょうね。


自分で
同情がほしいのかとも考えました
かわいそう、辛かったねと言われる事を期待しているのか、とも思いました


しかし町の焼失は、何年経っても脳裏に焼き付いて離れないものです


それでも明日は来る。


音楽は腹の足しにならず、家にも服にもならず

しかし、聞いたり見たりしてくれる人のストレス発散になるかもしれない
笑顔になれるかもしれない
はたまた悲しい気持ちになることもあるだろう

天災や戦争などで背負ってしまったものがある人にも

暫しの間だけかもしれないが
ストレス発散できるような、笑顔になってくれるような

そういったものを提供できるような
ミュージシャンになりたい。



天災には敵わない、いつ来るのかもわからない、いつ死ぬかもわからない
だから


そのときまで
生きよう、そして、純粋に
笑っていたい


2015年1月17日
本村彩織